朝、ご飯の支度をしてからキルシュ亭に行き、

昼の休憩時間と夜の仕事に入る前に、一旦家に帰ってご飯の支度をして、またキルシュ亭に戻る。

これが、最近の僕の日課だった。





いつものように、夜の仕事に入る前に僕は家に帰る道を辿っていた。

空を見上げると、夕方にもかかわらず、まだうっすらとした水色のグラデーションを広げている。

カラスがどこかで鳴く声を聞いて、なんだか分からないけれど滑稽だと思った。

もしかしたら僕の後ろ姿を見て笑っているのかもしれない。そんな考えが頭をよぎって、そう思う自分に失笑する。

だんだんと朱色を帯びていくその姿を、僕は目で無感動に見つめながら、ゆっくりと歩を重ねていった。





家に着くと、花壇に植えていた朝顔が目に入った。

僕はそれに近づくと、咲いている花弁にそっと触れてみる。今朝、咲いたばかりのやつだ。

にょきにょきと広がる葉脈を持つ葉を撫でながら、

今朝アカリが嬉しそうに水をあげていたことを思い出して自然と笑みがこぼれた。




「チハヤ。」


途端聞こえた声に思わず振り返ると、窓の向こうでアカリが柔らかく微笑みながら手を振っていた。


「・・・アカリ?」

ぽかんとした表情になってしまっていたかもしれない。なんでだろ。

アカリがこの家にいることなんて、朝からわかっていたはずなのに。


「チハヤ。」


もう一度、呼ばれた。思わずゆるく微笑んで、僕はアカリを見つめ返した。

大丈夫。まだ、彼女はここにいる。ここに。僕のもとにいる。



ゆるやかに心に積もっていくのは、なんでもない、けれどほっとできる、幸福の雪だ。

冬に雪が降ることなんて当たり前だと思っていたように、なかなか気づけない幸福の雪が、しんしんと心に降り積もっていく。

今ならプライドもなにもかもかなぐり捨てて、その降り積もった雪に向かってダイブできそうだった。


大きく息を吸い込んで、ふっと吐いた。安堵の息だった。ほっと肩の力が緩んだのが分かる。




「ただいま。」


誰にも踏み込まれていない真っ白な雪の上を踏みしめるように、僕はアカリに向かって呟いた。


もうこれ以上なにもいらないと、そう思った。












。。。 。。。 。。。









「あのね・・・。今日、ブラウニー牧場にみんなを預けてもらったの。」


ぽつりと、アカリは言葉を落とした。

思わずポケットからハンカチを落としてしまったかのように何気なく、でも決心を固めた声音だった。

僕は、睫を伏せているアカリのかさついてしまった薄い唇を見つめた後、アカリと同じように睫を伏せた。



「・・・そっか。」


「しょうがないことだって分かってるの、いつまでもリーナに甘えて牧場に足を運んでもらって、世話をしてもらうわけにはいかないし。」


「うん。」



「でも・・・。」



きゅっと、僕の服の裾を掴んだアカリの手が、白くて小さかった。

牧場の仕事をしていたときよりも、肌の荒れがおさまったその手が、

アカリがどれだけ好きだった仕事から遠ざかったかを物語っていた。


ゆっくりとアカリの頬に触れる。今にも流れ落ちそうなアカリの涙を受け止めようと思って。

けれど、アカリは泣かなかった。溢れ出てきそうなものをそっと蓋で閉じ込めるように、涙を瞳の中に押しやっていた。


だから僕は、アカリの涙を受け止めれないかわりに、そっと包むようにアカリの肩を抱きしめた。

ポンポンと肩をたたくと、アカリは小さくひゃっくりをあげた。涙のかわりに、それはひどく慎ましかった。



「・・・やっぱり、みんなと離れるのは嫌だよ。」



かぼそい声だった。


僕の胸の中で呟くアカリの声はくぐもっていて、アカリとは思えないほど小さな声だった。

アカリが消えてしまうんじゃないかと、一瞬思ってしまった。不安が心に沁み込んでいく。


だから僕は、なにも言わずにただ腕の中にいるアカリの存在を確かめるように、きゅっと、肩に回した手に力を込めた。

牧場で元気に働いていた頃よりも、痩せてしまったアカリの身体は、幾分か小さくなっていた。

鼻をすする音が僕の胸の中で、響いていた。




ふっと頭に思い浮かんだのは、いつかの朝顔の姿だった。


朝顔の花が咲いたことを喜んでいた、アカリの弾んだ声も、表情も。

ジョウロの中から零れ落ちる雫が、花弁の上で震えるように光るその姿まで、頭に思い描くことができる。

いつもなら、頭の隅に追いやられる日常のひとつひとつのことが、今は鮮やかに思い出すことができる。


さらさらと流れてしまう時間の大切さを、今やっと、実感することが出来たからなのかもしれない。







だからもうすこし。もうすこしだけ。













。。。 。。。 。。。







そして、日々はゆっくりと。けれど気づいた時には、あっという間に流れていく。







「アカリ?」


僕はベッドに横たわるアカリの寝顔を見つめた。

白い。絹のように、蝋人形のように、アカリの横顔は白かった。

牧場で世話しなく動き回り、太陽の光を浴びて小麦色の肌をしていた彼女の肌と同じとは思えない白さだった。



「アカリ、寝ちゃったのかい?」


幾分かほっそりとしてしまった顔に、ゆっくりと触れる。

瞼が透き通っているようだった。この奥に活発な色を発する瞳が隠れているなんて、誰も思わないだろう。


かさついた唇に人差し指を這わせて、初めてアカリの異変に気づいた。

いや、もしかしたら、彼女の顔を見たときから気づいていたのかもしれない。ただ、気づきたくなかっただけだ。




「アカリ。」


頬に手を添えて、もう一度名前を呼んだ。

愛しい名前だ。この名前を何度口にしただろうか。

言の葉として作り上げるだけで、こんなにも幸せな気持ちになれる名前に、初めて会った。それが彼女の名前だった。





「アカリ。」


目を覚ましてほしい。

もう一度、僕の名前を呼んでほしい。

「チハヤ」って。君に呼んでもらえて初めて、僕は自分の名前が愛おしいと思えたのだから。


僕はアカリの腕をとって、何度もこすった。

熱を呼び戻してほしかった。もう一度、その内から熱を帯びて欲しかった。

だから何度も、何度もこすった。


「アカリ。」



泣かない。泣けない。だって彼女はまだ、僕の元にいるのだから。

この手を離しはしない。

絶対に、守ってみせる。彼女が牧場を手放してしまったときにそう決めたのだ。




だから、だから。もう一度「チハヤ」って呼んで。

そうすれば、きっと僕は君のことを守るから。守り通すから。





だから、お願い。もう一度だけ・・・。










(さよならなんて、絶対に言うもんか。)




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